第二章 相手にされなかったのが、最上級の対応に

現金な銀行。変わっていった銀行。ついてきた銀行。

実際に銀行の調査を終えて、私が住宅ローンの借り換えをビジネスとしてスタートしたのは平成六年の四月だった。

今振り返るとこの時期は、ベストタイミングであったと今更ながら思う。

これより早くても、遅くても駄目だった。始めた当初私たちが対象としていて顧客となっていたのは、住宅金融公庫を利用している人たちだった。

 平成六年当時、まだ住宅ローン金利は銀行の方が住宅金融公庫より高かった。
銀行最低金利=5.7%、公庫=5.5%で、なぜ住宅金融公庫利用者が対象になっていたのかというと、昭和五十七年以降の公庫利用者の段階金利が十一年目を迎え7.15%~7.3%台になっていたからだ。この借り換えでも、顧客のメリットは十分にでたが、その年の十月になって驚いた。何と橋本内閣の金融白由化政策で、金利が自由化されたのだ。
 その結果銀行と公庫の立場が逆転し、一気に銀行金利の方が低くなった。当時借り換え後の金利は4.8~4.9%。そして一年後には3.8~3.9%にもなった。

 軽く3~4%の金利差がでるのだから、残高二干万円で一干万円前後のメリットがだせた。そして訪問すれば、面白いように依頼が入った。当初懐疑的であった銀行もそのうち態度が変わり、私の会社の専門担当窓口までできて、最上級の対応をするようになった。

 後でわかったことだが、銀行は住宅ローンの案件を持ち込む提携住宅販売会社を4段階にランク付けしている。月に3~4件の融資案件を持ってくる住宅販売会社でAランクということだった。
私の会社では7~8件常時持ち込んでいたので、その扱いが変わったのもうなずける。
この7~8件というのは、月ではなく当時は一日ベースだったのだから。

 そのうち銀行も住宅ローンの僭り換えが面白いビジネスであり、ビジネスチャンスと判断したのだろう。しだいに銀行も借り換えに積極的になってきた。そしてこの十五年間、様々に銀行は変化してきた。

 私はその間銀行と交渉をし統けてきたが、当初に比べると、驚くほど住宅ローンの借り換えに対して柔軟になってきた。その変化の代表的なものを時代に沿って取り上げてみよう。

 まず今だと当たり前の返済履歴のチェックなど、以前はなかった。

個入信用力より土地の担保価値が重要視されていたからだ。だから始めたばかりは担保不足の問題で、借り換えできない方が結構多かった。ただ公庫の対象になる方は、公庫を利用して十年以上経っている方ばかりだったので、バブルの土地価格高騰以前に購入していたため、担保力は足りていたのでそれ程影響はなかった。

 私たちは営業で、借り換えの浮いた差額でリフォームをすることが前提だったので、リフォーム資金は公庫の無担保ローンを使っていた。住宅ローンに乗せてリフォーム資金を低い金利で使えれば便利なのだが、当時できる銀行はなかった。ところが平成七年になると、営業にきたT銀行が、五百万円までなら住宅ローンに乗せて融資するという。そこで私たちはさっそくT銀行に乗り換えた。

 平成九年になるとA銀行が担保不足の物に対して一千万円まで融資枠を広げるようになった。そのせいかA銀行はその年住宅ローン貸し出し残高で、日本一になった。

 平成十年になると担保評価の二百%まで見る銀行がT銀行を始めとして続々登場してきた。二百%融資と言うことは、従来の担保力重視から個人信用重視に移ってきた現れだ。それに伴って信用チエックの一環として返済履歴のチエックが行われるようになった。平成八年~十年というと、山一証券の破たんに始まった金融危機の時期で公庫のゆとりローン利用者の破たんが注目された。銀行は公庫の窓口となっていたので、自行の公庫利用者リストを利用し、積極的に自行への借り換えの勧誘を行っていた。

今なら、個入情報保護法の取り締まり対象となる行為だが、公庫も目に余ったのだろう、銀行に対してあまり借り換えをしないようにと注意が入ったこともあった。このことは平成十二年になってM銀行は営業停止をくらっている。

 公庫から民間金融機関への借り換えは、公庫の事業計画を大幅に狂わせることになる。
何故かと言えば、貸出残高に対しての利息予定収入が償還によりなくなるのだから当然のことだ。最終的には、平成十九年四月住宅金融公庫が住宅金融支援機構に変わることに伴って、直接金融の廃止につながることになる。冗談でよく言うのだが、大げさに言えば、私たちが始めた住宅ローンの借り換えが銀行を積極的にさせ、それが公庫をつぶしたのだ、とも言えるかもしない。 (笑い。)

 平成十三年になると、個入版民事再生が登場した。知らない人のため説明すると、個人版民事再生は破産状態にある人で給与所得者など一定収入が見込める人は、住宅を守って他の借入を圧縮免除するというもの。簡単に言えば住宅ローンが払えるなら、家は守って他の借金は整理するごとができるというもので、住宅ローンの支払い自体も期間延長や一定期間の返済額低減などもできる。マイホームを失わずに借金を整理できるという都合のよいもの。これは別の視点から見ると、なんとしても銀行を守ろうという政策の現れといって間違いないだろう。住宅ローン以外の借金は五千万円以下なら最高十分の一に圧縮されるのだから、言い方を変えれば、他の借金を銀行の住宅ローンを完済するために使いなさいというごとだ。金融庁ができたのがその前年だから、住宅ローン破たん者が増加する中、いかに金融庁が銀行を守ろうとしていたのかが窺える。

 話は戻るが、平成十一年(一九九九年)二月、日銀がゼロ金利政策を発表した。翌年八月に一時解除されたものの更に翌年三月には量的金融緩和政策が導入され再びゼロ金利になった。

 それに伴い、徐々に下がっていた住宅ローン金利は (私が始めた当初銀行金利5.5%だったものが)とうとうピークを迎え、平成十三年四月には三年固定特約で1.95%にもなった。これは特別としても、2%台の住宅ローン金利が登場するなどと、私が事業を始めた当時誰が予測できただろう。私の事業は、始めてから一貫して、金利については追い風であった訳だ。

 ここでは詳しくは触れないが、銀行の再編成が並行して行われてきた。政府が主要銀行の倒産等あり得ないと保証していたのにもかかわらず、平成九年(一九九九年)十一月の北海道拓殖銀行の倒産に始まり、日本長期信用銀行・日本債権信用銀行の事実上倒壊が起き、それをきっかけとして様々な銀行の統合・合併が行われてきた。

あまりにもめまぐるしく変わってきたので、少々混乱もする。現在のメガバンクと言われる、みずほ銀行・三菱東京UFJ銀行・三井住友銀行などが、元々どのような経緯で誕生したのかご存知だろうか。調べてみるのも面白いだろう。

 銀行間で多様に違っていた住宅ローンについては、その都度変化していた。

M銀行などは合併はしたが、内部的には合併前となんら変わりなかった。仮にA系列列とB系列とすると、Aでは期間延長ができたが、Bではできながった。リフォームの残債を、Aでは住宅ローンに含めて借り換えできたが、Bではだめだった。総体的にBの方が審査が甘かった。顧客の案件を持ち込むに当たり私たちは、同じM銀行であっても、どちらの系列なのかをチエックして顧客にあった借り換えしやすい方を選択していたのだ。

 今では当たり前になっている優遇金利は平戌十一年頃登場した。銀行間の競争が激化してきたからだろう。当初は今のような全期間優遇は無く、二年三年の短期間のみで、期間終了後は店頭金利に戻るものだった。0.2%~0.4%程度の優遇だったものが平成十三年にT銀行が固定三年2%を1%優遇という画期的な商品をだし、大々的にキャンペーンを行った。

 私たちは、その年の七月に始まったばかりの住宅取得控除(平成十三年七月がら十六年十二月までに入居した人を対象とし、年末のローン残高の1%=最高五十万円を最長十年間還付するもの)に注目し、その優遇適用後の1%から、更に1%を引いた「ゼロ金利」への借り換えを勧めた。日本で最初の住宅口ーンのゼロ金利キャンペーンと言っていいだろう。 これは受けた。

 そして平成十五年になると、U銀行が担保評価を三百%までみるようになった。画期的なことだ。但し当時は客の属性により、保証料が通常の1.5~3倍という条件だった。しかし、これで担保不足と言う心配は払拭されることになった。が、優遇金利は依然短期間のみのままだった。ところがその年の秋、驚くようなことがあった。

 M銀行が私の会社の顧客にだけ、特別な条件をだすと言い出したのだ。

 その条件とは「特別に0.7%優遇、しかも住宅ローン完済まで。」というもの。

私は耳を疑った。当然だ、日本中まだどこにも全期間優遇などなかったのだから。

★ダイジエスト版はここまで。続きは本編へ

≪前のページ 目次へ ≫第三章 「銀行相談会の真実」へ